毎日カメラを持ち歩き、日に50枚の写真を撮って家に帰る
パソコンで編集作業をする
そうすっと、稀に良い作品に出会える事がある
悔しいが、それは狙って撮った写真ではない
反射神経で撮った沢山の写真の中に偶然素敵な条件が揃った写真が”紛れ込んでくれた”という感じ。


自分にとっての「え〜写真」(完全に俺主観。誰の意見でもない)
自分にとっての良い写真とは「面白い」+「狙った通りの写真に仕上がっている(構図・明暗差・ボケ感)+「全体のバランスが取れている」を言う。
被写体が面白くても色味と構図が整っていなければ❌
もちろん色と構図がパーフェクトなだけの写真はむしろ嫌いだ。
(それならば技術力0点でも面白い写真を撮れる方の人間になりたい)
難しいのはバランスが取れている写真の殆どは詰まらない写真になる。
素人が撮れる写真で面白い写真は突拍子もない被写体に出会えた時が殆ど。
(変ポーズをした子供。偶然の時刻、偶然の天気が作りだす光と影に気付けた時など)
狙って撮る事が素人には出来ない
素人が狙って撮る事が出来ないからプロのカメラマンが存在できる。
”狙って撮る”には目の前の被写体が5秒後にどう動くか、どの光とどんな関係になるかを予測できないといけないし、5秒以内にカメラ設定を終えなければいけない
偶然の被写体に出会う+気付く+レンズの画角に合わせた絵作り+頭で描いた絵を具現化するカメラの設定作り。
コレらを一瞬のうちに即動しないといけない
コレは神業なのだ
毎日毎日”道行く通行人の白い目”に耐えながら数年間シャッターを切り続けてようやく写真に向かう心構えと姿勢が身体に染み付いてくる。
良い写真を企むのはその後からだ。
俺も写真を撮り始めてそろそろ2年ほど。
最近になって稀に”素晴らしい現象への気付き”、予測、頭の中での絵作り、カメラの設定。
真似事程度に出来るようになってきた。
それでも納得のいく写真は中々撮れない。
そりゃそうだ。
毎日100本近くの写真を12年間とり続けているプロのカメラマンでも100本に2、3枚、良い写真があれば良い方だと言っているくらいなのだから
(一枚も良い写真が撮れない事もあるらしい)

人は何故良い写真が撮れないか?
”写真を撮る”という事は奥が深くて難しいモノなのは言うまでもないが何故こうまでして良い写真が撮れないのか?
その答えは人間の心の中にあると俺は思うようになった。
子供の頃にカメラを構える。
撮りたいものをファインダーの中央に据え、罪の意識なく日の丸構図で撮る。
その子供の写真に「笑っている人」が写っていればその人は写真を撮っている子供に笑いかけている。
物を撮った写真だとして写された物が逆光で暗かったとしても写真を見る人からすれば逆光など気にせず写真を撮った子供の無垢さに微笑みが出る。
二枚とも、もし大人が撮ったら変わってしまう。
人は笑わず、不信感に溢れた表情を見せることもあるし、物が逆光で写っていれば「そんな失敗作を見せるな」と悪態をつかれかねない。
問題なのはその常識が頭に入ってしまっている”大人”がカメラを握るから写真は難しくなる。
最近はSNSで自分の存在がどんな風に拡散されるかわからない恐怖を芸能人のみならず、一般人ですら感じながら生きる時代だ。
レンズに向けられる素敵な笑顔は、昔に比べレア度が上がっていると言わざるを得ない。
被写体からの不信感、自分の中に作られた大人として常識、この二大巨頭に打ち勝つ心を持ち、その上で高度な読みとカメラの操作を一瞬で出来なければ常軌を逸した写真を撮る事は難しい
それだけみじかな所にハイレベルな戦いがあるということも写真の面白さだと俺は思う
こんな事を友達に話すと友達は、
「お前、誰やねん!?」
と突っ込まれた。
だから俺は言った、
「たかが趣味、されど趣味くらいでやらな何でもオモロ無いやろが!!」
友達
「いや、趣味にそこまで熱くなる前に、定職探せよ!」
そのと〜〜り!
チャン、チャン♫
終わり!

